活動日誌

市政報告№ 228号です!

NO,228
新年、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします!

(更新日:2020年01月08日)

2019年 被爆者を励ますつどい

“> 西京極の宣伝を終え「被爆者を励ますつどい」へ。
 京都では、毎月の6.9行動で寄せられた被爆者救援募金を基礎に、見舞金として被爆者に渡されてきました。
 1965年12月には「被爆者激励集会」が開かれ、その後毎年行われるようになりました。
 今年も、縦に9、横に6マスのひざ掛け(6・9をモチーフにした)が送られ、去年から、8人の被爆者の方の肖像画が送られています。今年も8人の方の肖像画が、一人2時間から6時間かけて被爆体験を聞きながらデッサンし、3ヶ月かけて完成された肖像画が、一人ひとりのエピソードも紹介しながら贈呈されました。
 合唱や南京玉すだれ等で被爆しない暖かなつどいです。

(更新日:2019年12月21日)

故加藤広太郎さん「お別れ会&思い出を語る会」

 右京民商事務局長で、その後市会議員を7期務めた故加藤広太郎さんの「お別れ会&思い出を語る会」が開催されました。200名の方が参加され、思い出を語り、加藤さんを偲びました。
 7期目の途中、病に侵され、闘病生活は10年にも及びました。声が大きく、元気いっぱいの加藤さんはさぞ辛かった事だと思います。奥さんをはじめご家族の方々のご苦労も大変だったことだと思います。
 加藤さんと同期で市会議員をされていた、北山ただおさんが議員時代の加藤さんの活動を紹介されましたが、 議案説明では、新規事業についてよく調べ、ひつこく質問していた事や、ポンポン山訴訟の取り組みなど、市政を動かす大きな成果を勝ち取ったり、地域の様々な要求は勿論、京都は他都市に比べスポーツ施設が少なく利用料が高いことなどの問題を取り上げ、スポーツ施策などを充実に熱心に取り組み、その後の地域体育館の建設に繋がった事など紹介され、改めて加藤広太郎さんの偉大さを実感させられました。
 私も、第二部ので、右京民商事務局長時代の加藤さんの思い出を話させていただきました。
 1976年、私が20歳の時に右京民商に入局しましたが、当時、右京民商の会員数は1700名。事務局員も15人の大所帯で、右京民商事務局長になられて4年目の加藤さんは32歳。
 当時の事務局員メンバーは個性豊かな猛者ばかりで、役員さんも当時は30台から40代の働き盛りで勢いのある、海千山千の一匹狼の事業主。事務局運営も、会の運営も大変だったと思います。
 当時は、友禅などの出荷額はピーク時で右京区内には多くの友禅工場があり、職人さんたちの食生活を支える沢山の市場、商店街があり、活気があり、まだ市電も走っていました。
 1976年と言えば、右京民商初代事務局長だった岡本こうへいさんが市会議員の3期目の任期中に亡くなられ、当時の会長だった阪口さんが亡くなられた年でその後、加藤さんが岡本さんの跡継ぎとなる等、激動の時代でした。
 加藤事務局長は、会員さんのつながりを大切にすること、機関会議など組織の運営など原則を貫くことは勿論、事務局員の家族ぐるみのつながりを大切にされていました。
 支部対抗ソフトバール大会や、運動会を開催したり、事務局員の慰安旅行や、海水浴など家族ぐるみで行われていました。
 事務所でよく、昼食時にストーブの上でトン汁を作ったりされ、皆で鍋をつついたりしたものです。
 よく、カラオケにも行き、得意の「おゆき」や河島英五の「時代遅れ」等々よく飲み、よく歌いました。
 当時、加藤さんは西京の市営住宅に住んで居られ、私も上桂前田町のお風呂のないアパートに妹と二人で住んでいた時期があり、よく妹が加藤さんのお宅で夕食をよばれ、お風呂も入れてもらったりしていました。
 事務局員、一人ひとりの暮らしなどにも心を配られていたと思います。
 「まちかどの一所懸命」として長年頑張ってこられ、休む間もなく頑張り続けた結果、病に襲われた加藤さん。本当に無念だったと思います。その加藤さんの後を引き継ぐことの重みを改めて実感させられた、そんな想いです。
 微力な私です。無論、加藤さんと同じような活動はとてもできようもありませんが、加藤さんが築いてこられた土台を大切に、みなさんと力を合わせて、加藤さんに叱られないよう、頑張る事が出来ればと思います。

(更新日:2019年12月18日)

市政報告№227号です。

NO,227

(更新日:2019年12月12日)

日本平和大会㏌沖縄報告パート3

※オプションツアー前夜祭 
 8日から参加していた日本平和大会。京都平和委員会のオプションツアーの10日までの3日間で、帰った翌日11日が朝から地方議員研修会に参加し、午後は都市計画審議会が予定されていた。平和大会直前に、都計部会で質問分担を行い、私は、当局への聞き取りと大会前日に現地へバイクで出かけて実地を視察し、大会へ。大会参加中、ホテルに帰って夜は自主的交流会に参加せずに、8日の夜は、ホテルにこもって質問準備。9日の分科会は、午前中で終わり閉会集会と那覇市内日岩パレードは比較的早く終わったので、18時からの京都代表団交流会までに何とか質問原稿を仕上げることができ交流会へ。
 交流会のお店は、昔懐かしの雰囲気の、海人居酒屋一郎屋。水原弘・由美かおるのハイアース殺虫剤の看板などレトロな看板ポスターが。店の大画面のモニターには、昔懐かしい映像が流れていました。店長さんは京都から来られた方とのこと。
 ちょうど、この日が私の64歳の誕生日と言う事で皆さんに、乾杯で祝福していただき楽しく皆さんと交流させていただいた

※まずは、嘉手納基地へ  
 午前8時、貸し切りバスでホテルを出発。アジア最大の基地。羽田空港のなんと1.3倍。基地と隣接する嘉手納弾薬庫を合わせた面積は46.440平方キロ。三沢、横田、横須賀、岩国、佐瀬穂の主要基地の合計面積32.114平方キロを大きく上回る巨大基地。
 基地は、嘉手納町、沖縄市、北谷町の1市2町にまたがり、滑走路は3700m、幅91.1mと61mの2つの滑走路がある。嘉手納町の82.8%を占めている。私の住んでいる、右京区山ノ内から京都市役所までみんな基地に占められているようなものではないか。沖縄の成長・発展に、とんでもない邪魔者であると実感する。バスで移動する間、行けどもいけども基地の中。これはもう、異常以外何物でもない。
 横田基地に司令部を置く米軍第5空軍に指揮下にある第18航空団のホームベース「チームカデナ」と呼ばれ、F15C/Dイーグル戦闘機部隊(第44飛行中隊、第67飛行中隊)44機や空中給油機、偵察機が配備されている。空軍兵員6,600人、軍属8,500人、基地従業員3,200人、民間の契約社員2,000人の約20,000人が配備されている。
 嘉手納基地の成り立ちは、1949年、日本軍が本土決戦の最後の砦として建設した、「中飛行場」を1945年上陸した米軍が制圧・修復し、日本本土襲撃基地として再建設したもの。沖縄を除く全国の米軍施設・区域では、約9割が国有地。沖縄県では、約2割が国有地で、約8割が県有地、市町村有地、民地。私有財産の没収を禁じた国際法に反し、銃剣とブルドーザーで強奪されたもの。
※米軍上陸地点読谷村へ 
 1945年4月1日、夜明け前の午前5時半。読谷・渡具知海岸に猛烈な艦砲射撃が開始された。約20分間で12センチ砲以上が44,825発、ロケット弾33,000発、迫撃砲22,500発が撃ち込まれ、午前8時半米軍が上陸。
 読谷村に上陸したのは、1.日本全土を攻撃する前線基地となりうる読谷飛行場(北飛行場)があったこと。2.攻撃を支えるために必要な物資の荷下ろしができる浜があったことーだった。
 一方、日本軍にとって沖縄は、本土決戦の準備のための「時間稼ぎ」の場とされた。
 読谷村民は沖縄戦で2947人が犠牲となり、その65%に当たる1933人が、米軍が上陸した4月から6月にかけてなくなっている。
 現在、上陸地点の砂辺馬場公園には「第二次世界大戦米軍上陸地点モニュメント」が設置されていた。
※米軍軍基地返還の経済効果2000億 北谷町  
 この日の昼食は、北谷町の米軍施設が返還された北谷町美浜地区の「ハンビータウン」。
1981年にハンビー飛行場(42.5ha)メイモスカラー射撃場(22.9ha)が返還された。町が21億円かけて跡地利用計画を立て、商業地域として発展している。広々とした道路が通り、商業施設や様々なお店が整然と並び、広場では、子どもたちのダンスチームがダンスを披露していた。イベント会場では「北谷の産業祭」が開催されていた。鉄骨や階段の様子から、軍用施設をそのまま活用していることを感じさせる雰囲気のお店もあり、基地返還された街だと感じさせられた。
北谷町の試算では91年から02年までの12年間で、経済波及効果は1726億円。基地だったころの固定資産税は357万円は2億8600万円と81倍位に。雇用創出は100人足らずから2000人を超えるに至るそうだ。
※普天間基地か嘉数高台へ 
 1945年の沖縄戦のさなか、米軍は宜野湾村の一部集落を強制接収し、住民が避難したり、収容所入れられている間に基地を建設。収容所から出てきた住民は長年住み慣れた土地を奪われ仕方なしに基地の周りに住みついた。住宅密集地にある「世界一危険な基地」と言われ、基地面積の9割が私有地で、現在も28,000人の地権者がいる。
 1995年の、少女暴行事件をきっかけに、全県で基地反対運動が沸き起こり宜野湾海浜公園で行われた「県民大会」には85000人が集まった。2004年8月13日(金)午後2時15分に米海兵隊所属CH-53D型ヘリコプターが、沖縄国際大学に墜落、爆発炎上するという大事故が発生。消火活動を終えた宜野湾市消防に対し、米軍は消火現場から立ち退かせ、大学構内が米軍によって一方的に占拠された。事故現場を訪れた大学学長や宜野湾市長の立ち入りも認めず、大学構内が米軍管轄・管理下に置かれた。
 2012年10月1日。山口県岩国基地から、沖縄県あげて配備に反対している垂直離着陸機MV22オスプレイ6機の配備が強行された。現在24期が配備されている。
 2017年2月7日に宜野湾市の緑ヶ丘保育園に米軍ヘリCH-53Eの部品が落下。50センチずれていたら大事故になっていた。12月13日には普天間第2小学校に、大型輸送ヘリのガラスの着いた7キロもの金属製の窓枠を落下させるという信じがたい事故が起きている。
 普天間基地のゲートから基地内を見学後、嘉数台へ。嘉数台の戦いは、4月8日から16日間にわたる、沖縄戦最大級の激戦であった。日本軍は低地に「反斜面陣地」を構築して米軍に劣る火力をカバーし、頑強に抵抗したため、嘉数は米軍からは「死の罠」「忌々しい丘」などと呼ばれた。
 嘉数戦では日本軍の戦死傷者は合わせて64,000人に上った。嘉数に投入された第62師団独立混成旅団には京都出身兵が多く(約3500名)、そのほとんどが故郷を見ずに嘉数にて戦死しているため、1964年4月29日に京都府出身沖縄戦没者の冥福と世界の恒久平和を祈念し“京都の塔”が建てられている。
※不屈館へ 
 沖縄の祖国復帰と平和な社会の実現を目指して命がけで闘った、瀬長亀次郎(元衆議院議員)が残した膨大な資料を中心に、沖縄の民衆の戦いを後世に伝えようと設立された資料館。沖縄の戦後史、特に米軍統治下の民衆の歩みが学べる場所。人間「瀬長亀次郎」に出会える場所。米軍占領下で、米軍に最も恐れられ、激しい迫害、弾圧を跳ね返し、那覇市長、立法院議員、沖縄人民党委員長、国政参加選挙で衆議院議員に。日本共産党副委員長、カメさんこと、瀬長亀次郎の不屈の戦いを学べる資料館。

(更新日:2019年12月03日)

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