活動日誌

市政報告№185号

代表質問後半です。

(更新日:2018年03月14日)

お母ちゃん、安らかに。

2月28日水曜日午前11時43分、お袋が亡くなりました。

昭和8年4月18日生まれで、もうすぐ85歳の誕生日を迎えるはずでした。

亡くなる、6日前の22日、私の代表質問を妹のスマホで見ていて、電話で激励してくれていたので信じられませんでした。2月24日に、むくんだ足が痛いと救急車で運ばれ入院したと聞いたので、3月3日が父の90歳の誕生日だったので3日に大阪に帰り4日の日曜日に病院に見舞いに行く予定をしていたのに…

大阪で生まれた母は、幼いころに母を亡くし、二十歳ころまで富山の親戚に預けられていたそうです。

父と結婚し、大阪の羽曳野市で私を出産しました。その後、2人の妹ができ5人家族となりました。

父の仕事の都合で私が小学校に上がる前に吹田市に転居し、高校の途中まで吹田で過ごしました。

1972年に、松原市大堀町へ。母は39歳、私は高校生、2人の妹は中学生の頃でした。

その後、私は京都の大学に進み、京都で働き現在に。

母は、家計を支えるために、40を過ぎてから、「赤い屋根」というかわいい喫茶店を始めます。

慣れない土地で、慣れない商売で大変苦労をしていたと思います。

そんな中でも、母は京都にいる私を気遣い、時間をつくって、重箱に一杯、料理を作って私に会いに来てくれていました。

父や、妹達とくることもありましたが一人で来ることも。嵐山や高雄を散策したものです。

親孝行らしいことは何一つできませんでしたが、何より元気な顔を見せることだと、毎年、お正月、ゴールデンウィーク、お盆には娘たちと大阪へ!

母に帰る日を連絡すると「もう歳やし、何にもでけへんで」と言いながら、心を込めて沢山の料理を準備して待っていてくれます。娘たちも母の料理を楽しみにしています。「ばあちゃんの料理は最高や」と喜んでおなか一杯食べています。

私が帰る日には、妹家族もそろい、孫やひ孫で大賑わいです。

トランプ、ゲーム、百人一首。母は挟み将棋が得意で、必ず「こうじ、はさみ将棋や」と勝負を挑んできます。負けず嫌い母には誰も勝てません。

去年の5月に、神戸にいる娘の結婚式に、シドニーにいる娘が、孫のゲンと夫のマシュー、マシューのお母さんとお姉さんとともに帰ってきて、神戸教会での結婚式に妹達の家族と一緒に参列し、翌日は神戸布引ハーブ園を元気に皆で散策していた時からまだ1年にもなりません。

そんな母に癌が見つかったのは、昨年の8月でした。末期癌で胃から肝臓など全身に転移していたそうです。その時は、余命2年だと聞かされていました。

それでも元気にふるまい、今年のお正月もいつものように、挟み将棋を挑んできました。

今年の正月の帰り際には「こうじ、今年は百人一首せえへんかったな」と名残惜しそうに言うので「また今度しよう」と言って帰りました。その今度がないなんて夢にも思わなかったのに。あまりに突然の別れでした。

個人の遺志で「家族葬」でと、身内だけのお葬式を予定していましたが、お通夜が始まると次から次と来られます。

生前、カラオケや社交ダンス等々、沢山の人に慕われていたんだと感謝の気持ちでいっぱいになりました。

告別式親族代表の挨拶を喪主の父に代わりさせていただきました。途中、涙で話せなくなるかと思いつつ、母との思い出や、お通夜で私の知らない母の一面を語っていただいた沢山のみなさんのおかげで幸せな一生だったと感謝を申し上げさせて頂きました。

残された父が気がかりですが、近くに妹がいるので安心です。翌日、ジジ(父が飼っている犬の名)の散歩に出かける父。私も一緒に散歩に付き合いました。

(更新日:2018年03月05日)

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