故加藤広太郎さん「お別れ会&思い出を語る会」

 右京民商事務局長で、その後市会議員を7期務めた故加藤広太郎さんの「お別れ会&思い出を語る会」が開催されました。200名の方が参加され、思い出を語り、加藤さんを偲びました。
 7期目の途中、病に侵され、闘病生活は10年にも及びました。声が大きく、元気いっぱいの加藤さんはさぞ辛かった事だと思います。奥さんをはじめご家族の方々のご苦労も大変だったことだと思います。
 加藤さんと同期で市会議員をされていた、北山ただおさんが議員時代の加藤さんの活動を紹介されましたが、 議案説明では、新規事業についてよく調べ、ひつこく質問していた事や、ポンポン山訴訟の取り組みなど、市政を動かす大きな成果を勝ち取ったり、地域の様々な要求は勿論、京都は他都市に比べスポーツ施設が少なく利用料が高いことなどの問題を取り上げ、スポーツ施策などを充実に熱心に取り組み、その後の地域体育館の建設に繋がった事など紹介され、改めて加藤広太郎さんの偉大さを実感させられました。
 私も、第二部ので、右京民商事務局長時代の加藤さんの思い出を話させていただきました。
 1976年、私が20歳の時に右京民商に入局しましたが、当時、右京民商の会員数は1700名。事務局員も15人の大所帯で、右京民商事務局長になられて4年目の加藤さんは32歳。
 当時の事務局員メンバーは個性豊かな猛者ばかりで、役員さんも当時は30台から40代の働き盛りで勢いのある、海千山千の一匹狼の事業主。事務局運営も、会の運営も大変だったと思います。
 当時は、友禅などの出荷額はピーク時で右京区内には多くの友禅工場があり、職人さんたちの食生活を支える沢山の市場、商店街があり、活気があり、まだ市電も走っていました。
 1976年と言えば、右京民商初代事務局長だった岡本こうへいさんが市会議員の3期目の任期中に亡くなられ、当時の会長だった阪口さんが亡くなられた年でその後、加藤さんが岡本さんの跡継ぎとなる等、激動の時代でした。
 加藤事務局長は、会員さんのつながりを大切にすること、機関会議など組織の運営など原則を貫くことは勿論、事務局員の家族ぐるみのつながりを大切にされていました。
 支部対抗ソフトバール大会や、運動会を開催したり、事務局員の慰安旅行や、海水浴など家族ぐるみで行われていました。
 事務所でよく、昼食時にストーブの上でトン汁を作ったりされ、皆で鍋をつついたりしたものです。
 よく、カラオケにも行き、得意の「おゆき」や河島英五の「時代遅れ」等々よく飲み、よく歌いました。
 当時、加藤さんは西京の市営住宅に住んで居られ、私も上桂前田町のお風呂のないアパートに妹と二人で住んでいた時期があり、よく妹が加藤さんのお宅で夕食をよばれ、お風呂も入れてもらったりしていました。
 事務局員、一人ひとりの暮らしなどにも心を配られていたと思います。
 「まちかどの一所懸命」として長年頑張ってこられ、休む間もなく頑張り続けた結果、病に襲われた加藤さん。本当に無念だったと思います。その加藤さんの後を引き継ぐことの重みを改めて実感させられた、そんな想いです。
 微力な私です。無論、加藤さんと同じような活動はとてもできようもありませんが、加藤さんが築いてこられた土台を大切に、みなさんと力を合わせて、加藤さんに叱られないよう、頑張る事が出来ればと思います。

(更新日:2019年12月18日)